前方後円墳が日本で最初に出現した纒向遺跡は、倭国女王・卑弥呼(2世紀後半~248年頃)の活躍期と重なる。平成19年に3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡が見つかったことで、「大和説(畿内説)」が盛り上がった。
古事記や日本書紀には纒向の地に3代にわたる天皇の宮殿があったと記され、国の始まりを知るのに極めて重要な存在だ。しかし半世紀前、重要性の認識は薄かったという。
「当時奈良県庁の遺跡調査室に出向しており、纒向に炭鉱離職者のアパートを建てる国の計画が持ち上がったことを知りました。上の人に調査をしたいと相談すると、『やめとけ、調査はいらん』と」
そこで、建設事業担当者を説得しにいった。
※省略
しかし、調査では期待した集落の遺構は出ず、川の跡と土器片がでてくるだけ。このままで遺跡調査は中止されるかもしれない…。
「研究所のそばに県の図書館の分館があって、万葉研究家の吉岡義信さんがおられ、柿本人麻呂の万葉歌がぴったり合う場所だと教えてもらった」
《巻向の穴師(あなし)の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む》
歌に詠まれた巻向川のせせらぎはここだと発表したところ、「万葉の川発見」と報道され、次の年からも調査ができるようになった。「このときばかりは神の導きを感じました。吉岡さんは纒向遺跡の命の恩人。あそこに銅像を立てるべきですね」
■発掘現場で恩師と出会い
半世紀前、粘り強い執念で、後に邪馬台国畿内説のシンボルともなった纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)の存在を世に知らしめた石野博信さん。考古学者としての原点は、出身地の宮城県渡波(わたのは)町(現在は宮城県石巻市に編入)で過ごした少年時代にさかのぼる。
※省略
奈良に来て2年目。纒向遺跡という「運命」の発掘調査に携わったのをきっかけに、纒向を中心とする2~3世紀(邪馬台国時代)の考古学研究がライフワークとなる。
橿考研を定年退職し、初代館長に就任した奈良県香芝市二上山博物館では、全国から著名な考古学者や研究者を呼び、自らが司会を務める「邪馬台国シンポジウム」を開催し、所在地論争を盛り上げた。
シンポは博物館とその友の会「ふたかみ史遊会」の共催。平成13年7月の「邪馬台国時代の近江と大和」というテーマを皮切りに、29年3月の「魏都・洛陽から『親魏倭王』印の旅―楽浪・帯方・三韓から邪馬台国へ」まで17回に及び、2日間で500人以上が参加する恒例の考古学イベントとして全国に知られた。
邪馬台国の所在地論争では畿内(大和)説か九州説かをめぐっていまだに決着を見ないが、石野さんは「やっぱり大和かなあとなっている感じやね」と話す。
「土器の移動は九州から大和は少ないけど、大和から九州はすごく多い」。邪馬台国時代の列島の中心地が大和だった証拠は積みあがっている。「でも決定打がない。わからないから面白いんだよね」
寝食を忘れ、発掘に没頭したという若き日の面影がよぎった。(聞き手 川西健士郎)
◇
【プロフィル】いしの・ひろのぶ 昭和8年、宮城県生まれ。関西学院大文学部卒業。関西大大学院修了後、奈良県立橿原考古学研究所副所長などを歴任。奈良県香芝市二上山博物館初代館長(平成4~23年度)、兵庫県立考古博物館初代館長(19~26年度)。『邪馬台国の考古学』『古代住居のはなし』『大和・纒向遺跡』など著書多数。奈良県桜井市纒向学研究センター顧問を務める。
産経WEST
https://www.sankei.com/article/20210709-UHODKYA3RBPL5LUKMFBYBZMMYM/
考古学者・石野博信さん
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/n0d6db7cc0b70
【恐怖体験】女ヤンキーが幽霊に絡まれた話 #1#恐怖体験 #実話 #女ヤンキー #幽霊 #中野https://t.co/aBy1wQxHBu
— 【怖い漫画】不思議ネットTK (@fusigi_net_tk) September 27, 2022
九州に居たのは天皇の家来達
天皇は四国にいたよ 四国から近畿に移動
四国の地名を近畿の所々に付けてるだろ
吉野川とか
・理由は言えないが倭人伝の南は実は東だった
・奈良も鉄器社会だったが鉄が溶けやすい地質なので残って無い
・よく似た古墳がある地域は当時同政権だった証拠
・纏向建物の柱穴より深い別の遺構で出土した桃の種が3世紀だったので建物は卑弥呼の宮殿に違い無い
・纏向は人々の住居跡がほとんど無いので倭国の首都だった
・島根県で景初3年の紀年鏡が出土したので畿内説が正しい
・博多湾から投馬国までの水行20日の道中は無人地帯だった
・投馬国から水行10日+陸行一月の道中も無人地帯だった
・中国産の銅しか無い時代に作られた三角縁神獣鏡の成分が中国産だと分かったので中国製で間違いない
・中文は日本の漢文と同じ
魏志倭人伝を中国人が読めば誰がどう解釈しても
邪馬台国が東シナ海にあることにしかならないのよ
それば何故か?
魏が蜀を攻めるとき南蛮に背後を襲わせたように
魏が呉を攻めるとき東シナ海から邪馬台国に襲わせようとして使者を送ったわけ
ところが、使者が行ってみたら全然違う場所だった
でも、計画を立案した官僚のメンツを潰せないので
あたかも、東シナ海にあるかのような書き方をした
それが魏志倭人伝
いや、最近の全ゲノム解析で判明してるけど、
九州や山陰は朝鮮半島との距離的な近さにも関わらず、DNAに占める縄文人の割合が高くて
朝鮮民族の組成とは距離があるという結果だった
東の関東とかのほうがDNA的にはずっと朝鮮民族に近い
魏に朝貢していた邪馬台国は畿内にあったというのが現在の最有力説
中国で出てない銅鏡ばっかだぞ。
国内産のレプリカじゃん。
九州説はよくこうやってあからさまな嘘をつくね
畿内からは三角縁神獣鏡を始め斜縁神獣鏡や
画文帯神獣鏡や方格規矩鏡が出土していて
中国でも同じものが見つかっている
同時代の中国と確実に同じ鏡が出てきたのは
大分県日田市
九州でも出てニュースになってなかった?
九州にあった山門国が滅ぼされて宝物として畿内に移動した可能性はないのかな
畿内説がそんなに有力になる理由としてはまだ弱い印象を受けました
九州の大分から出た鏡は中国の研究者のお墨付き
実物を確認した上で邪馬台国のものである可能性が高いと発表
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/472520
「三国志の英雄」として知られる曹操(155~220年)の墓「曹操高陵」を発掘した中国・河南省文物考古研究院の潘偉斌(ハン・イヒン)氏が、大分県日田市のダンワラ古墳出土と伝わる国重要文化財「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)」を、邪馬台国の女王・卑弥呼がもらった「銅鏡百枚」の一枚である可能性が高いとする見解を明らかにした。佐賀新聞社の取材に応じた。
卑弥呼がもらった鏡は、邪馬台国の謎を解明する重要な鍵とされており、今回の指摘は邪馬台国論争に一石を投じそうだ。
それ出土が怪しい
今までも、限りなく黒に近いダークグレーだったけど
最近になって、当時関わっていた学者がダンワラ古墳からの出土ではない旨の文章を書き
発掘関係者の証言も公表されて、ほぼ真っ黒になってる
そもそもこの記事はローカル新聞の匿名記者が誘導尋問みたいな感じでインタビューしたようなものだろ
ありがとう!
畿内説だとこの鏡の存在はどう説明されるんだろ?
まあこの中国人も胡散臭いとは思うがw
文字記録が無い時代だから確定しようがない
その「金印」とやらが出れば別だが、とっくに霧散してるだろ
魏の旗や檄文があったとは書かれていない。
熊襲を倒した方法は、宴会で、日本武尊命が
女装して熊襲健をブッ殺した。
そっちが楽しみ
あんな米軍基地のあるとこに邪馬台国があったとかロマンだな
邪馬台国三重県説とかまであるのなw
邪馬台国の卑弥呼=倭姫命(ヤマトノヒメミコ)、
長官の伊支馬=日向の豪族生目
副長官の彌馬升=吉備出身の豪族、纏向政権の御馬城
何か聞きたい事はあるかな?
熊襲からタケルを奪ったように山門郡にいた土蜘蛛を殺した時に国名を奪ったんじゃないの
古代はどう読んだか知らんけど(しかし音韻学では相当正確な発音を確定できるらしい)
でも邪馬台とヤマトが何の関係もないってのが、かえって白々しい印象を受けるw
高良山が本拠地で、
卑弥呼の墓は祇園山古墳(鏡山神社)である。
バイアスがかかった者同士の論争
40代以下は吉野ヶ里遺跡の発見後に日本史を学んでるから九州説が多いと思う
吉野ケ里は保存状態が希少なのであって
同時期の大規模集落遺跡は関西にもあるやん
渡来人の進んだ国家がある大和にそんなの居ないと思う
丹波の杜氏で有名な日本酒の製造方法と、
丹後ちりめんに引き継がれている絹織物の製造で、
経済力を有していたからと考えられる。
みんなどちらかに限定して対立煽ろうとするよね
日向から東遷したことは書けるのに、邪馬台国が東遷したことが書けないって意味不明だからね。
邪馬台国の東遷や、九州王朝の東遷は完全に妄想の世界。
金錯銘鉄剣や銀錯銘太刀みたいな、物証の前には九州王朝はラノベの世界でしかない。
日向から東遷したんなら日向が邪馬台国じゃね
邪馬台国が東遷したなんて一言も書いてないから、むしろありえないってことだ
あったとかなかったとか断言するやつはみんな妄想家
どういう事だ???
民間の議論の熱を冷めさせない為にあえて5%ぐらいの学者が九州説に付いたのです
ほんそれ
今の学会では九州説なんかネタレベルで
邪馬台国=畿内が定説になってる
ってよく聞くよね
ここでは九州のが強いけど
なんだかなぁ
菊池川を挟んでやりあってた
近畿なんて全く論外
絹織物の伝播の伝承がある。
絹織物が丹後に伝わったのは
弥生後期~古墳時代であり、
当時の絹織物の先進地は北部九州であって、
8人の天女が丹後に絹織物と日本酒の製造方法を伝えた、
まさに、八女から丹後に、
絹織物と日本酒の製造方法が伝わった、
弥生の事実が伝承として残っているのである。
これだけ調査がされても何にも出てこいんだから
そんな国はそもそも存在しなかったと考えるのが合理的かと
桃は卑弥呼の敵対勢力だ無知w
鬼=卑弥呼の鬼道
桃=道教のシンボル
鬼道とは「正当なやり方ではない」という意味らしく道教とも違うようだ
統治法が中国から見たら異質だという意味か中華のまじないと比べ異質という意味かまでは分からない
383 :日本@名無史さん :2020/05/28(木) 00:59:58.44
さて、こうして狗奴国の領域を考古学的に検証してみると
以前作ったこの地図はかなり正しいように思えるな
309 :日本@名無史さん :2019/09/04(水) 04:03:09.07
>>73-74,247,292-294,305で挙げた内容に>>138,290,295の内容を加味して
総合的に考えた結果こうなった
当時はまだ免田式土器の知識が足りなかったから狗奴国に阿蘇地域を含めていないなどの欠点はあるが
邪馬台国の位置検討の上では支障無いだろう
だって、もし九州だったら、どうやって九州の邪馬台国から畿内の大和に権力が移ったんだ?
日本人のDNAは9割が弥生人、1割が縄文人だが、畿内、とりわけ奈良県を中心に最も弥生人が濃く、そこから遠いほど縄文人の血が濃い傾向がある
九州の南部は内地では最も縄文人が優勢な地域だし、北部もどちらかというと濃い地域だ
そんなところが弥生人中心に成り立った倭人の最高権力の座だったとはとても思えんのだよな
九州の鯨面祈祷師がいる邪馬台国と、近畿のヤマト王権が別物だから
じゃあ邪馬台国は当時の日本列島の小国を束ねるような強国だったにも関わらず、
史書にも神話にも全く残らず勝手に自然消滅、あるいは近畿の大和に秒で征服されたのか?
そんなことってあるか?
神功皇后記に100年後の邪馬台国が滅ぼされる記述があるじゃん
そんなものがちゃんと書いてあったらそもそもこんな論争起きてないわ
邪馬台国と大和王権が同一か別物かも分かってねーのに
古事記の国生み神話にも山津見(狩猟民)が多数派で描かれているので、
支配層は渡来系かも知れませんが、人口比は狩猟系の方が多いのでは
ないでしょうか。
ちょうど伊都国あたりの天皇家が東へ移るための足場か
そのための徴税基地みたいな?
ヤマトトトモモソヒメ
↓
息子が吉備津彦(桃太郎)
モモソヒメの子供だから桃太郎
たぶんこんだけの話だと思うんだよね
近畿説って箸墓古墳に卑弥呼が埋まってるとしてるんだけど
だとしたら裸足で山の中あるいてたわけ?
海なら石がまるいんだけど。
貝塚はどこなんだろうね
海の中に入ったときに魔除けになると刺青してたって魏志倭人伝に書いてあるのにね
桃太郎は歴史がけっこう浅いんじゃないの?
鬼ノ城城跡は間違いなく大陸系城壁だし
旧まちずくりを見たらなんか違う情緒が有って
見ごたえがある
> 伝承によると、温羅は異国から飛来して吉備に至り、
製鉄技術を吉備地域へもたらして鬼ノ城を拠点として一帯を支配したという。
吉備の人々は都へ出向いて窮状を訴えたが、温羅はヤマト王権が派遣した武将から逃げおおせて倒せなかった[1]。
このため崇神天皇(第10代)は孝霊天皇(第7代)の子で四道将軍の1人の五十狭芹彦命を派遣した[1]。
討伐に際し、五十狭芹彦命は現在の吉備津神社の地に本陣を構えた[1]。
温羅に対して矢を1本ずつ射たが温羅はその都度石を投げて撃ち落とした[1]。
そこで命が2本同時に射たところ、1本は撃ち落とされたが、もう1本は温羅の左眼を射抜いた。
すると温羅は雉に化けて逃げたので、五十狭芹彦命は鷹に化けて追った[1]。
さらに温羅は鯉に身を変えて逃げたので、
五十狭芹彦命は鵜に変化してついに捕らえたところ温羅は降参し「吉備冠者」の名を五十狭芹彦命に献上した。
これにより五十狭芹彦命は吉備津彦命と呼ばれるようになった[1]。
とりあえず社名は邪馬台からヤマトで行くぞって
大陸にも名前は知られとるしって
縄文系の長髄彦である。
コレに物部氏の祖先、ニギハヤヒが、
高天原=博多湾周辺の奴国から進出して行った。
その後、吉備から御馬城氏が纏向に進出し、
その後、日向の生目氏が縁戚関係を通じて、
大和に進出していった。
そして最後に、生目氏の息子日本武尊命を養子に貰った丹波氏が、
熊襲征伐の後、丹後から畿内、東海、関東甲信越へと
進出して行った。
九州だったら「大和王権にあっさりぶっ殺された地方小勢力」で話が終わってしまうわ
女王国の東にも独立勢力の倭人がいたんだろ?
その前は鹿児島県の隼人町だった
御馬城氏関連の娘との間に出来た
日本武尊命を養子に迎えて、
畿内へと進出して行き、
その息子の仲哀が天皇になっている。
ある意味知的作業ではあるがw
紀元前後に丹後半島の中心勢力が変わったんじゃないか?
弥生時代中期までは鉄工房が盛んであった
弥生時代後期になると中心集落の位置が変わり、【朝鮮半島に類似した墓】、【朝鮮半島製と思われる鉄刀】が出土するようになる
丹後半島と入れ替わるように淡路島や池上曽根遺跡、少し遅れて伊吹山など畿内周辺で鉄工房が営まれるようになる
紀元前後丹後半島で鉄工房を営んでいた勢力が畿内に逃れてきたと思われる
その後畿内の勢力の協力を得て淡路島や伊吹山に拠点を構えたんじゃないか?
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている
鉄、吹子、ひょっとこ、風の神
級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味だが、息長氏と関係があるのかな?
鉄工房の勢力はヤマタノオロチかもしれない
山門八女の邪馬台国は滅んでしまったのは間違いないだろう。
しかし、分家は日本全国に散らばっていたので、
神功皇后がそれをまとめて、
熊襲を即座に倒した。
次の大きな歴史の転換期は4世紀のヤマトタケルの伊吹山行きかな
伊吹山でヤマタノオロチの勢力と戦い深傷を負ったのか敗れたのか
次は息長氏の娘神功皇后に場面が転換する
日中の史書に記述がない事になってるけど
これ本当は分かってんでしょ。
こういう時は大抵、現王朝に都合が悪いとずっと隠される。
ケネディ暗殺の情報が公開義務の期限が過ぎてるのに全て発表されないのと一緒。
現在の為政者にとって都合悪い事は表に出ない。
本居宣長の頃からなんだが
その時から同じ王朝が続いてんじゃん
うん分かってる。
実は、魏志倭人伝をちゃんと読めばヤバい話が書かれてる!
(学者たちは必死に見えなかったことにしてるけどw)
後漢書に依れば、奴国が倭国代表として朝貢してたのに、
魏志で、奴国は単なる邪馬台配下の国だと解る。つまり、
漢の時代、奴国の裏に居た邪馬台が真の列島覇権国だと解る。
ところが、その邪馬台、倭国大乱(漢末の2世紀末?)に負け、
覇権放棄を約している。女王(=剣を持たぬ王)の即位だ。
邪馬台の港を謎の存在「大倭」が押さえていて、この大倭こそ
大乱の勝者で、朝貢した邪馬台の裏に居る新覇権国だと解る。
大倭(=後の大和=奈良)は、軍門に下した邪馬台を
漢の次の王朝(結果的に魏)への朝貢用に存続させてた訳で、
4世紀頭に華北が完全崩壊し、東亞に朝貢秩序が消えた際、
滅ぼされるのは必定だった。
そして滅ぼした邪馬台(やまと)の権威を大倭が継いだので、
大倭改め「大和」と書いて「やまと(邪馬台)」と呼ばせた。
それ、あなたの感想ですよね?
後半は推量ですか、文獻とかありますか
ちょっと無理な解釈のようにも見えますが。。。
神武東征説からすると日向辺りを出発したヤマイチコクが奈良盆地に辿り着いたと見るのが自然のような気もしますが
なるほど、しっくりくるな…
大和(大倭)でヤマトは無理あるけど
邪馬臺でヤマトは普通に読むからな。
大倭は連合軍か。
大陸との繋がりがないから邪馬臺の権威を継いだと。
そりゃ古事記や日本書記に邪馬臺が出てこないわけだわ。
古墳の出土品から見て、
吉備とつながりが深い事は間違い無いし、
ソレは記紀から見て崇神である事は間違い無いだろう。
ソレが派遣した四道将軍の範囲が、
纏向の外来土器の出土状況と一致しており、
纏向政権=吉備出身の豪族の崇神朝
である事がほぼ決定づけられるのである。
ソレが魏志倭人伝では、邪馬台国の副長官の彌馬升と明記されている訳だから、
纏向政権自体は、邪馬台国の本体ではないなと、
確定する事が出来るのである。
え?
邪馬台国の副長官だったの?
大和に最初に勢力を張って、
日本の各地を制圧したのは御馬城崇神になる。
しかし、天皇家自体は御馬城氏と縁戚関係はあったものの、
出自は日向の豪族であって、
邪馬台国の丹波氏とも縁戚関係があって、
最終的に、丹波氏に養子行った日本武尊命の子孫が、
大和政権を継承した。
この本来3つの氏族の物語を、
1系統の物語にまとめたのが、
日本書紀や古事記の伝承だと考えられるのである。
辺境の地を大きく書こうが小さく書こうが
それで業績評価はされないと思うけどね
倭人にヒアリングして書いたんだろうから
倭人の記憶と航海術がいい加減だったとしか
司馬懿の政敵だった曹真が大月氏国という大国に朝貢させる手柄を立ててるからそれに対抗するには司馬懿が朝貢を促した邪馬台国が実は銅印レベルの小国だったなんてことはあってはならない。親魏大月氏王の金印と親魏倭王の金印は魏の外交的に一対になってる。
これ
なので距離も人口もあてにならない
「『鏡と金印渡してきました』報告が嘘でなかったら」とかいう話もあるね
「女王には会えなかったがとりまそのへんに渡してきた」みたいな書き方してある
途中で紛失するからねぇ
もともとの天叢雲剣は宮中から伊勢神宮へ
そこから日本武尊通して熱田神宮に行った
宮中にあるのは壇ノ浦に沈んだ後、伊勢神宮から献納されたコピーだし、
八尺瓊勾玉は安徳天皇と一緒に沈んだけど箱ごと浮かび上がってきたとかいう話になってるし、
※これを神璽としてる。つまり王権の象徴
八咫鏡は3回燃えてるし
そんなもんよ
三国志でも
伝国の国璽見つけた人は死んでしまったからな
このスレ楽しい…
(私の感想です)
引用元:https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1626093787/
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